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歴史・文化

1920年、中華民国は尖閣諸島が日本の領土の一部であると認識

1919年(大正8年)~1920年(大正9年)
中国船の遭難と魚釣島の人々による救護

中華民国福建省泉州府恵安県白寄郷の漁民、郭合順ら31名が乗った漁船金合丸は、浙江方面で漁業に従事していました。1919年(大正8年)12月26日、漁船金合丸は暴風に遭い、航行の自由を失って漂流します。郭らは5日間漂流したのち、30日夕刻、尖閣諸島の和平島(魚釣島の別称)に、搭載していた小型艇を使って上陸しました。郭らが乗っていた長さ約15.6メートル、幅約5.4メートルの漁船は、嵐のために壊れてしまっていました。食料はすでに尽き、飢餓が迫っていました。

幸い、和平島(魚釣島)には鰹節の製造などを行っていた古賀善次の工場があり、工場関係者30余人が働いていましたので、郭ら31名を救護し、貯蔵していた食料を分け与えました。

天候が回復した翌年1920年(大正9年)1月10日、救護を受けて島に滞在していた郭ら31名は、古賀商店所有の漁船で全員石垣村役場へ送り届けられました。遭難者の送還について、石垣村役場と中華民国駐長崎領事との間での交渉の結果、郭ら31名は1月21日に大阪商船八重山丸で台湾基隆へ出発し、25日に基隆から厦門行きの大阪商船天草丸で福州へと戻っていきました。

1920年(大正9年)
中華民国から贈られた感謝状

1920年(大正9年)、中華民国駐長崎領事は、中国の漁民を救助した島民や、その他の沖縄の日本側関係者に対して漂着地である尖閣諸島の魚釣島が沖縄の一部であることを明記した感謝状を贈っています。当時の記録文書によれば7通の感謝状が贈られたようですが、現存が確認されているのは2通です。感謝状には、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と記載されています。

感謝状から確認できるのは、当時の中華民国も、尖閣諸島を日本の領土と認識していたということです。

1920年(大正9年)中華民国から贈られた感謝状